簡略に説明します。
北海道の簡易軌道唯一である、毛登別トンネルが開通したのは1947年です。1929年の開通当初は北へ大きく迂回し、峠を越えるルートでした。旧国鉄興浜北線の休止に伴い、第二次世界大戦末期には枝幸を結ぶ唯一の交通機関となり、急勾配の解消と輸送力増強のため、新ルートを建設します。
旧ルートに関し、『歌登町史』(1980年11月発行)は次のように書いています。
毛登別三線で分れ、三線の沢(炭鉱の沢)を遡り、小頓別の下手、長屋の沢に越えるものであった。この間の峠が勾配が急で、貨物の輸送に困難を生じ、またたびたび客車、貨車の暴走事故を起すなど、その改善が望まれていた。
毛登別トンネルが開通したのは興浜北線が復活した後で、間もなく歌登と枝幸の間が廃止されました。
トンネル開通以前のルートに関する文献は少ない。『鉄道廃線跡を歩く3』(宮脇俊三編著、JTB、1997年)に掲載され、『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』(JTB、1998年)に再録された「全国 廃線鉄道地図」の旧ルートは不正確で、この図からルートの実際を想像するのは難しい。『日本鉄道旅行地図帳 1号〔北海道〕』(2008年5月17日発売)の18・19ページでは、図1に近い形で旧ルートが掲載されています。もっとも、詳細は触れていません。
このたび、1948年5月に米軍が撮影した空中写真を入手しました。写真には毛登別トンネルルートとともに、旧線跡が鮮明に残されていました。
1940年代後半は、運行主体が北海道庁から軌道運行組合、さらに歌登村(町制施行は1962年)へ移行した時期です。混乱を避ける意味もあり、一連の記事では路線名の表記を「歌登町営軌道」に統一します。
接続する国鉄線の路線名は当時、北見線でした。こちらも同様の理由で、表記を天北線に統一します(北見線から天北線への変更は、1961年4月1日)。
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写真A・1977年の9月25日~10月20日撮影。旧線廃止から30年後の空中写真。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。解像度 400dpi の写真をトリミング・合成・縮小。元画像の縮尺は1万5千分1。
旧線の全ルートを図示したのが図1▲です。小頓別から毛登別峠へ向かう途中で急曲線を描いており、ルート選定に苦心したことがうかがえます。
旧線廃止後30年を経た写真A▲から、さらに30年以上が過ぎました。
次ページからは航空写真をもとに、小頓別から毛登別へ向かう旧線跡をご紹介します。モノクロ写真は、1948年5月7日米軍撮影の空中写真(国土地理院保有。縮尺は1万5千865分の1)です。写真の上辺が真北を向いていないため、角度を補正しました。カラーの空中写真は、国土交通省の国土画像情報より引用しました。