写真1のホーム先端から、ほぼ同じアングルのストリートビュー。駅舎跡地から浜頓別方向の路盤は道路となり、住宅も建ち当時の面影はない。2014年7月撮影。
筆者が旧JR天北線・下頓別駅跡を訪れたのは、1993年5月の肌寒い日である。廃線からちょうど4年が経過していた。
木造駅舎は既に取り壊されており、ホームと錆の進行した駅名標が残っていた。笹が繁殖し、夏草が生い茂る時季には訪問しにくいと思わせる。ホームの浜頓別寄りには使われなくなった電信柱が積まれてあった。
当時は廃線跡の旧下り線がクッキリ残り、旧上り線ホームのあった場所は草地が広がるばかりだった。撮影した1993年度から駅跡周辺に平屋の住宅4戸の下頓別団地が造成され、一般住宅も建てられ町道が通り、景観は一変している。
またホームの向かい側に「下頓別みんなの公園」が整備され、ホーム周辺も整地されている。廃線後ながら、写真は過去の風景となった。
ネットを検索したところ、1998年5月撮影の駅名標がより錆びているのに対し、1999年9月撮影の駅名標は新しくなっている。この間に更新されたとみてよいだろう。
写真3の左手に遠望する建物は、西尾木材(本社・札幌市)の工場で、1947年5月に進出した。浜頓別町のサイト・浜頓別町の歴史によると、大正7年(1918年)に西尾英蔵が下頓別に木材工場を創設したとある。同じ「西尾」だが関連性はわからない。製材の7割は大成建設に納められた。やがて、外国から木材が輸入される時代になると、地理的条件が悪い下頓別工場は不採算となった。1970年建設の苫小牧工場に集約させ、下頓別工場の閉鎖・撤退の方針を決めたのは1993年12月である。
下頓別に勤める社員25人に伝えられたのは1995年6月で、同年12月に閉鎖された。会社側は下頓別の社員を苫小牧や札幌に配転させる予定だったが、多くの社員が家庭の事情で地元に残ることを希望した。希望者自身はもとより西尾木材でも就職先を探し、全員が再就職できたという。
工場跡は更地化され、町有地となった。2015年から2016年にかけ、工場跡を含む下頓別の2か所に太陽光発電所が建設され、稼働している。
宗谷南部は木材搬出が盛んで、天北線の音威子府-浜頓別に限ると、小頓別・中頓別・下頓別・浜頓別の各駅に木材会社の専用線が引かれていた。
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写真A・1977年9月25日撮影。下頓別駅の上りホームは浜頓別寄りにあり、いわゆる千鳥配置である。西尾木材への専用線が引かれている。下頓別駅の貨物取り扱いは1982年5月限りで廃止、同時に無人化された。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。解像度 400dpi の写真をトリミング・50%に縮小。元画像の縮尺は1万分1。
写真B・下頓別市街の航空写真。木材工場跡は太陽光発電所に変わった。マーカーをクリックすると、該当地点の情報を表示します。 木材工場跡のストリートビューを見る 初期画面を表示
豊牛下頓別停車場線は旧国鉄興浜北線豊牛駅そばの一般国道238号交点を起点に、枝幸山地の北端を横切り、下頓別へ抜ける 12km あまりの路線である。
酪農地帯を走り、丘陵のアップダウンから頓別川下流の平野が展望できる。ウソタンナイ砂金採掘公園にも近く、2015年度から宗谷シーニックバイウェイの一部に指定され、「はまとんべつゴールドラッシュロード」の愛称が付けられた。
JR天北線が走っていた時代、豊牛下頓別停車場線は線路の手前で直角に右折、西尾木材の工場前で左へ急カーブ、踏切を渡り一般国道275号と合流していた。
国道交点直前のカーブをなくし、真っすぐに国道と交差するよう改められたのは、天北線が消えて10年ほど経過してからである。
区間 変更前後の別 敷地の幅員 延長 国道等との重複区間 枝幸郡浜頓別町字頓別原野2295番28地先から
枝幸郡浜頓別町字頓別原野4249番地先(一般国道275号交点)まで前 17.70m から 44.00m まで 397.80m 一般国道275号重複 L = 22.60m 枝幸郡浜頓別町字頓別原野2295番28地先から
枝幸郡浜頓別町字頓別原野4248番1地先(一般国道275号交点)まで後 21.20m から 29.50m まで 189.28m 一般国道275号重複 L = 13.36m