本稿の記述は、次の文献を参考にしました。
一帯は、北海道大学の研究林が広がります。駅の設置は、木材の搬出が主な目的だったでしょう。略歴を表にします。
| 年月日等 | できごと |
|---|---|
| 1929年ころ | 木材搬出のため、人が出入りし始める。 |
| 1941年10月10日 | 蕗ノ台駅開業。造材関係者・駅員・日本通運の営業所員が居住。 |
| 1942年 | 当時の戸数は12戸ないし13戸だという。 |
| 1946年7月15日 | 室蘭市の日本製鋼所より、第一陣の開拓団16人が入植。 |
| 1947年 | 入植者が28戸になる。10月、造材業者の住宅を改造し、母子里小学校の分校を設立。 |
| 1948年12月24日 | 小学校校舎完成。 |
| 1949年4月1日 | 蕗の台小学校開校。全校児童33人。12月、朱鞠内中学校の分校を併置。生徒数13人。 |
| 1950年 | 国勢調査による人口は54戸、264人。うち開拓団は32戸、167人。 |
| 1954年9月27日 | 台風15号(洞爺丸台風)による被害を受ける。 |
| 1955年4月1日 | 中学校分校を、蕗の台中学校として分離。 |
| 1955年 | 国勢調査による人口は49戸、227人。うち開拓団は22戸、103人。 |
| 1962年3月15日 | 蕗の台小中学校の閉校式(5月31日廃校)。母子里小中学校の通学区域となる。 |
| 1962年7月11日 | 開拓団解散。集団離農。駅周辺に、3戸13人が残る。 |
| 1964年4月1日 | 蕗ノ台駅が駅員無配置になる。 |
| 1972年夏 | 最後の居住者が退去。無人地帯となる。 |
| 1977年12月1日 | 蕗ノ台駅の冬季休止が始まる。 |
| 1990年3月10日 | 蕗ノ台駅を廃止。 |
写真A・1948年10月16日撮影。入植が始まった頃の蕗ノ台駅周辺。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。解像度 400dpi の写真をトリミング。縮尺は3万1千184分1。引用に際し、補正をしています。
第2次世界大戦の敗戦は、軍需工場であった日本製鋼所室蘭製作所の余剰人員を生み、解雇者の中から農業希望を募ります。200人超の日鋼開拓団が結成され、蕗の台へは約30人が入植しました。
自治区は2つで、駅周辺を蕗之台第1、開拓団が入植した地域を蕗之台第2に分けました。
当初は農業馬もなく、開墾は困難を極めました。また蕗が大きいのに驚嘆したといいます。豆類や馬鈴薯を栽培するものの、9月・10月の霜で収穫が振るわない年も多くありました。山羊やヒツジの飼育も試みましたが、成功しませんでした。農業では生計が立たず、日雇い労働に頼らざるをえなかったそうです。特に1954年は冷害と霜に加え、洞爺丸台風で住宅や神社が倒壊し、収穫は皆無でした。初めて農作物を貨車で出荷したのは、実に1956年の秋でした。
その頃から、離農者が増えてゆきます。環境の悪条件もさることながら、住民同士の人間関係が必ずしも良好ではなかったことも一因のようです。
蕗之台自治区が消滅したのは1965年です。その後も、3戸13人が蕗の台に残っていました。どのような暮らしを営んでいたのかは、うかがい知れません。
| 選挙名 | 男 | 女 | 計 |
|---|---|---|---|
| 1962年参院選 | 16 | 16 | 32 |
| 23 | 21 | 44 | |
| 1965年参院選 | 3 | 3 | 6 |
| 1967年地方選 | 4 | 3 | 7 |
| 1968年参院選 | 1 | 1 | 2 |
| 1969年衆院選 | 1 | 0 | 1 |
| 1971年地方選 | 1 | 0 | 1 |
| 1971年参院選 | 1 | 0 | 1 |
| 1972年衆院選 | 0 | 0 | 0 |
1963年の統一地方選と衆院選では、北大蕗之台事業所に投票所が設けられています。1962年以降、記録に残っている選挙の有権者数を表2にまとめました。1962年参院選は上段が蕗之台第1自治区、下段が蕗之台第2自治区です。
1968年に一挙5人も減っており、この時点で蕗の台に住民票を置いていたのは1世帯だけと思われます。1969年1月、蕗の台在住の女性が逝去しました。1971年まで有権者名簿に登載されていた男性が、蕗の台最後の住民だったのでしょう。


1929年頃から泥川流域(図2の左上に見える川)で造材事業のため人が出入りするようになり、蕗ノ台と同時に駅が開設されました。このころ、農耕用に区画が設定されます。幌加内村内の添牛内から数戸が入植を試みるも、3年ほどで全戸離農し、その後も農業を営む居住者は現れませんでした。ほかに居住したのは鉄道・日本通運・木材事業関係者で、1942年に15戸を数えました。
| 西暦 | 戸数 | 男 | 女 | 計 |
|---|---|---|---|---|
| 1950年 | 16 | 80 | ||
| 1955年 | 12 | 68 | 32 | 100 |
| 1960年 | 11 | 21 | 24 | 45 |
| 1965年 | 0 | 0 | 0 | 0 |
白樺駅は木材の搬出で賑わい、1956年に 12,009 トンの発送を記録します。朱鞠内・蕗ノ台(12,564 トン)に次ぐ数字を残し、貨物収入は 7,176,220 円でした。洞爺丸台風の倒木処理に追われた結果ともいえるでしょう。
以後急速に寂れ、白樺駅は1960年12月10日に貨物扱いを廃止、1961年4月1日より無人化されました。1962年の参議院選挙では、男性10人・女性7人が有権者名簿に登載されています。同年自治区が消滅、1963年までは居住者がいたようです。
写真B・1948年8月26日撮影。白樺駅周辺は深名線が唯一の交通路。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。解像度 400dpi の写真をトリミング。縮尺は3万939分1。
『幌加内町史』には蕗ノ台・白樺両駅とも木造駅舎の写真が載っており、駅本屋のほか吹き抜け倉庫・便所・石炭庫・保管庫(蕗ノ台駅のみ)があったと記しています。解体されたのは、1970年代に入ってからかもしれません。
1982年11月19日施行の字名改正により字白樺は廃止され、字のない区域となりました。
1993年に撮影した、旧JR深名線・北母子里駅の写真を掲載します。
根室本線に茂尻駅があるため「北母子里」とした話は有名です。では、なぜ「母子里」の字を当てたのか。
最初は「茂知」という字を当てていました(この当て字の由来は不明)。1928年、北大演習林本部の谷本勇造が測量に訪れた際、入植者の若夫婦に子どもが誕生したのを知ります。この出来事から「母子里」と命名し、1930年7月の幌加内村議会で地区名として認められました。