蕗の台・白樺の歩み

本稿の記述は、次の文献を参考にしました。

  • 『幌加内町史』(1971年9月1日発行)
  • 『新幌加内町史』(2008年3月31日発行)
  • 『広報ほろかない縮刷版(1951~1997)』(幌加内町発行。1997年8月)

蕗の台

一帯は、北海道大学の研究林が広がります。駅の設置は、木材の搬出が主な目的だったでしょう。略歴を表にします。

表1 蕗の台の歴史
年月日等できごと
1929年ころ木材搬出のため、人が出入りし始める。
1941年10月10日蕗ノ台駅開業。造材関係者・駅員・日本通運の営業所員が居住。
1942年当時の戸数は12戸ないし13戸だという。
1946年7月15日室蘭市の日本製鋼所より、第一陣の開拓団16人が入植。
1947年入植者が28戸になる。10月、造材業者の住宅を改造し、母子里小学校の分校を設立。
1948年12月24日小学校校舎完成。
1949年4月1日蕗の台小学校開校。全校児童33人。12月、朱鞠内中学校の分校を併置。生徒数13人。
1950年国勢調査による人口は54戸、264人。うち開拓団は32戸、167人。
1954年9月27日台風15号(洞爺丸台風)による被害を受ける。
1955年4月1日中学校分校を、蕗の台中学校として分離。
1955年国勢調査による人口は49戸、227人。うち開拓団は22戸、103人。
1962年3月15日蕗の台小中学校の閉校式(5月31日廃校)。母子里小中学校の通学区域となる。
1962年7月11日開拓団解散。集団離農。駅周辺に、3戸13人が残る。
1964年4月1日蕗ノ台駅が駅員無配置になる。
1972年最後の居住者が退去。無人地帯となる。
1977年12月1日蕗ノ台駅の冬季休止が始まる。
1990年3月10日蕗ノ台駅を廃止。
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国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より。
写真A・1948年10月16日撮影。入植が始まった頃の蕗ノ台駅周辺。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。解像度 400dpi の写真をトリミング。縮尺は3万1千184分1。引用に際し、補正をしています。

第2次世界大戦の敗戦は、軍需工場であった日本製鋼所室蘭製作所の余剰人員を生み、解雇者の中から農業希望を募ります。200人超の日鋼開拓団が結成され、蕗の台へは約30人が入植しました。

自治区は2つで、駅周辺を蕗之台第1、開拓団が入植した地域を蕗之台第2に分けました。

当初は農業馬もなく、開墾は困難を極めました。また蕗が大きいのに驚嘆したといいます。豆類や馬鈴薯を栽培するものの、9月・10月の霜で収穫が振るわない年も多くありました。山羊やヒツジの飼育も試みましたが、成功しませんでした。農業では生計が立たず、日雇い労働に頼らざるをえなかったそうです。特に1954年は冷害と霜に加え、洞爺丸台風で住宅や神社が倒壊し、収穫は皆無でした。初めて農作物を貨車で出荷したのは、実に1956年の秋でした。

その頃から、離農者が増えてゆきます。環境の悪条件もさることながら、住民同士の人間関係が必ずしも良好ではなかったことも一因のようです。

蕗之台自治区が消滅したのは1965年です。その後も、3戸13人が蕗の台に残っていました。どのような暮らしを営んでいたのかは、うかがい知れません。

表2 蕗の台の有権者数
選挙名
1962年参院選161632
232144
1965年参院選336
1967年地方選437
1968年参院選112
1969年衆院選101
1971年地方選101
1971年参院選101
1972年衆院選000

1963年の統一地方選と衆院選では、北大蕗之台事業所に投票所が設けられています。1962年以降、記録に残っている選挙の有権者数を表2にまとめました。1962年参院選は上段が蕗之台第1自治区、下段が蕗之台第2自治区です。

1968年に一挙5人も減っており、この時点で蕗の台に住民票を置いていたのは1世帯だけと思われます。1969年1月、蕗の台在住の女性が逝去しました。1971年まで有権者名簿に登載されていた男性が、蕗の台最後の住民だったのでしょう。

図1。2万5千分の1地形図「蕗之台」(昭和44年修正測量)を約1.5倍に拡大。
図1。蕗ノ台駅前には人家が描かれており、居住者がいたようだ。2万5千分1地形図「蕗之台」(1969年修正測量)を約1.5倍に拡大。
図2。2万5千分の1地形図「蕗之台」(昭和44年修正測量)を約1.5倍に拡大。
図2・白樺駅周辺。家屋の記号が見られる。既に無人地帯であった。2万5千分1地形図「蕗之台」(1969年修正測量)を約1.5倍に拡大。

白樺

1929年頃から泥川流域(図2の左上に見える川)で造材事業のため人が出入りするようになり、蕗ノ台と同時に駅が開設されました。このころ、農耕用に区画が設定されます。幌加内村内の添牛内から数戸が入植を試みるも、3年ほどで全戸離農し、その後も農業を営む居住者は現れませんでした。ほかに居住したのは鉄道・日本通運・木材事業関係者で、1942年に15戸を数えました。

表3 白樺地区の人口(国勢調査)
西暦戸数
1950年1680
1955年126832100
1960年11212445
1965年0000
表3注
1950年は男女の内訳不明。

白樺駅は木材の搬出で賑わい、1956年に 12,009 トンの発送を記録します。朱鞠内・蕗ノ台(12,564 トン)に次ぐ数字を残し、貨物収入は 7,176,220 円でした。洞爺丸台風の倒木処理に追われた結果ともいえるでしょう。

以後急速に寂れ、白樺駅は1960年12月10日に貨物扱いを廃止、1961年4月1日より無人化されました。1962年の参議院選挙では、男性10人・女性7人が有権者名簿に登載されています。同年自治区が消滅、1963年までは居住者がいたようです。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より。
写真B・1948年8月26日撮影。白樺駅周辺は深名線が唯一の交通路。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。解像度 400dpi の写真をトリミング。縮尺は3万939分1。

『幌加内町史』には蕗ノ台・白樺両駅とも木造駅舎の写真が載っており、駅本屋のほか吹き抜け倉庫・便所・石炭庫・保管庫(蕗ノ台駅のみ)があったと記しています。解体されたのは、1970年代に入ってからかもしれません。

1982年11月19日施行の字名改正により字白樺は廃止され、字のない区域となりました。

晩年の北母子里駅

写真1。駅窓口。
写真1。窓口はカーテンがかけられ、中は見えない。通学生らしき自転車が置いてあり、駅ノートが積まれていた。1993年5月1日撮影。撮影地 雨竜郡幌加内町字母子里

1993年に撮影した、旧JR深名線・北母子里駅の写真を掲載します。

根室本線に茂尻駅があるため「北母子里」とした話は有名です。では、なぜ「母子里」の字を当てたのか。

最初は「茂知」という字を当てていました(この当て字の由来は不明)。1928年、北大演習林本部の谷本勇造が測量に訪れた際、入植者の若夫婦に子どもが誕生したのを知ります。この出来事から「母子里」と命名し、1930年7月の幌加内村議会で地区名として認められました。

写真2。駅舎正面。
写真2。北母子里駅舎。雪が残っていた。窓には木が打ちつけられている。1993年5月1日撮影。撮影地 雨竜郡幌加内町字母子里
写真3。ホームから駅舎を見る。
写真3。ホーム側から駅舎を写す。同様に、出入口以外の窓は塞がれている。1993年5月1日撮影。撮影地 雨竜郡幌加内町字母子里
写真4。深川方向。
写真4。無人化とともに交換設備は撤去され、旧上り線ホームのみ使用されていた。1993年5月1日撮影。撮影地 雨竜郡幌加内町字母子里
写真5。名寄方向。
写真5。駅名標は木にかぶさっていた。ベンチが備えられており、マイルドセブンの広告が貼ってある。1993年5月1日撮影。撮影地 雨竜郡幌加内町字母子里
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