天北栄に居住者は…

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2万5千分の1地形図「小頓別」(昭和31年測量)を約2.3倍に拡大。
図1。2万5千分1地形図「小頓別」(1956年測量)を約2.3倍に拡大。

天北栄仮乗降場の疑問点を調べました。

はたして、天北栄仮乗降場周辺に居住者は存在したのか。

『中頓別町史』(1997年刊。以下、町史)に目を通し、可能性は非常に高いとみています。

中頓別村字栄(以下「字」を省略。注1▼)は、1938(昭和13)年4月1日の字名改正で生まれた地名です。町史によると、字の範囲は「北は上頓別及び岩手に界し、東は小頓別、西南は天塩国境及び秋田に界する一円」と記されています。

区域は下の Google マップをご参照ください。範囲は広く、一般国道275号も区域を通過します。

各字の戸数と筆数(登記簿にある土地の区画数)も書いてあり、当時の栄は戸数10・筆数37とあります。

第二次大戦前の1943年8月6日、小頓別国民学校栄分校を開設しました。教員2人・児童11人で、内訳は男子6人・女子5人。戦後の記録はなく、学制改正で閉校したのかもしれません。先の大戦では、栄出身の戦没者がいた記録も残っています。

戦後は、サハリン(樺太)からの引揚者1世帯が栄に入植しています。1954年に宗谷支庁が実施した無電化集落の調査で、栄は全7戸が無電化であり、電化の予定なしと記されています。

このほか、村(町)道「天北国境線」で上栄橋(18m)を1943年に、栄橋を(6.4m)を1948年に架設した記録があります。「天北国境線」が栄を通る道なのか、定かではありません。ただ名称から、図1に見える橋がどちらかである可能性はあり得るでしょう。

いつ、誰が栄へ最初に入植したか、町史には書いてありません。栄といっても範囲は広い。しかしながら、これら記録を重ねてゆけば、図1にある家屋の記号は居住者の家ではないかと思えてきます。

国勢調査によると1965年以降、栄の人口はゼロです。それまでに全戸が栄を離れ、仮乗降場の廃止につながったと考えられます。

注1
中頓別村は1921(大正10)年4月1日、頓別村(現・浜頓別町)より分村。1959年11月1日、町制施行。
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