先日ネットで検索中に偶然見つけた論文は大変興味深く、刺激的であった。
本稿の筆者がほぼ同時期に執筆・寄稿した道路史と、テーマが共通しているからだ。
札幌冬季オリンピックのスキー滑降競技会場となった、恵庭岳に関する当時の議論が主要テーマである。オリンピック開催までの過程を追う文献に北海道自然保護協会会報を参照した点が目新しく、論文の特徴といえる。札幌オリンピック冬季大会組織委員会(以下「組織委員会」)の各種会議録から論文テーマに関連する概要、それに対する北海道自然保護協会(以下「道自然保護協会」)の議論・要望の概要を時系列で表にまとめたのも、わかりやすくてよい。
オリンピックと自然保護が問われた最初期の事例が札幌大会でないかと石塚氏は考え、その全容を明らかにした研究がないことも同時に指摘している。論文を書いた動機だ。
この議論はオリンピック大会の招致に関わった体育・スポーツ界においてのみなされたものではなく、環境保護団体や行政をも巻き込んだものであったことがうかがえるにもかかわらず、これらを俯瞰する検討はなされていない。
会場に決定した恵庭岳が仮設の施設となった過程と伐採・復元方法に関する議論の検証に、石塚氏は紙面の多くを割いている。一方、恵庭岳山麓をめぐる道路建設は「環境保護団体や行政をも巻き込んだ」事業の一つである。札幌と恵庭岳会場を結ぶルートが整備途上だった時代、道路建設問題は全体像を俯瞰するために欠かせない題材であった。したがって、道路史の断面を切り取った論文にもなっている。
道路建設問題では、丸駒温泉-オコタンの道路建設を推進したい組織委員会と反対の立場をとる道自然保護協会の対立を記述している。最終的に道自然保護協会の意見を参考に町村金五北海道知事(当時)が建設中止を決断した。その背景を知ると、なるほどと思われるかもしれない。
町村は、組織委員会の委員であったと同時に、協会の会員でもあった(本稿筆者・大島注―『北海道自然保護協会会誌』第2号、P62、1967年)。つまり町村の存在は、東条(本稿筆者・大島注―東条猛猪=とうじょう たけい。北海道自然保護協会初代会長を歴任。1962年から1977年まで北海道拓殖銀行頭取)の存在と同様に、組織委員会と協会双方の意見をすりあわせ、自然保護の措置を講じた建設を目指すことを可能にしたと考えられる。
町村氏が当時、道自然保護協会の会員だった事実は重い意味を持つ。目を通していて最も注目した点であり、論文を通じ広く明らかにしたことは大きな意義がある。
『ウェブマガジン カムイミンタラ』1997年11月号/第83号(株式会社りんゆう観光)所収の幅広い関係者が多数集まって大雪山を守る熱心なフォーラム 大雪と石狩の自然を守る会には、道自然保護協会が設立された頃について次の記述がある。
役員は道内政財界、学者など各界のトップクラスによって構成されました。おりから高度経済成長期であり、各種開発事業が進められるなかで、協会は自然破壊の被害を少なくするよう意見書を提出して計画の修正を促す活動をみせていました。
協会の設立は1964年で当時は日が浅く、北海道知事が協会に参画するケースは充分ありえた状況といえよう。もし町村氏と道自然保護協会につながりがなかったら、歴史は書き換えられたのであろうか。
石塚氏の論文はリンク先(日本体育学会体育史専門分科会のサイト)よりダウンロードできる。
その後も石塚氏はスポーツに関する論文を発表しており、札幌冬季オリンピックに関する論文は次のとおり。抄録のみは除いた。
石塚氏の益々のご活躍を祈念いたします。