消えた道道・苫小牧港線

苫小牧港黎明期の道道

苫小牧港線苫小牧環状線の前身にあたる道道です。起点は現在と同位置で、終点は字明野――現在の柳町1丁目国道交点にありました。

高度成長期に認定され、わずか8年4か月で廃止されました。「消えた」のは、路線名だけではありません。ルートの一部が、苫小牧港(西港)建設によって消えてしまったのです。

図1について
  • ズームアウトは初期画面より2段階まで。
  • 赤・紫の線は、地図とラベルで表示されます。

図1・苫小牧港の地図。赤い線は当初の、紫の線は変更された道道苫小牧港線の一部。マーカーをクリックすると、該当地点の情報を表示します。 初期画面へ

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5万分の1地形図「苫小牧」(昭和43年編集)、等倍。
図2。苫小牧西港の開港間もない頃。苫小牧港線は海岸と国道を直結していた。5万分1地形図「苫小牧」(1968年編集)、ほぼ等倍。
5万分の1地形図「苫小牧」(平成5年修正)、等倍。
図3。港の掘り込みに伴い、東へ迂回する道路が建設された。5万分1地形図「苫小牧」(1993年修正)、ほぼ等倍。
写真1。苫小牧港通と道道上厚真苫小牧線交点を見る。
写真1。道道苫小牧港線は交差点を直進し海岸線を結び、1960年代の重要路線として機能していた。苫小牧西港の掘り込みにより分断された。2009年11月8日撮影。撮影地 苫小牧市字勇払

図1▲の赤い線は幅員 60m の都市計画道路に指定され、1967・68年度に 1,400m 余りが舗装されます。進出した企業の通勤路線でもありました。1970年の時点で、通勤者は約400人です。

一方で苫小牧港の掘り込みは東へ進み、苫小牧港線の分断が確実でした。次の構想が浮上します。

  1. 地下トンネルを建設する。なお、水路の水深は 12m 。
  2. 水路を跨ぐ橋を建設する。建設費の見積もりは40億円。
  3. 渡し船を運行する。

1と2は建設費が高く、3は採算性に問題があり、見送られました。分断されたのは1971年1月です。前年9月の当初予定を、年末の繁忙期に使用したいとの要望を受け延期しました。

代わって道道へ昇格したのが、図1▲の紫色のルートです。C地点-D地点の大半は、臨港道路中央南ふ頭幹線です。『苫小牧港史』では1971年10月供用開始とありますが、分断された時点で開通していた可能性もあります。上厚真苫小牧線の跨線橋の西へ出る、臨港道路勇払ふ頭幹線の供用開始は1975年12月です。苫小牧環状線へ引き継がれた紫色のルートは、1974年秋より勇払市街を経由する現ルートへ変更されました。同線の起点から一般国道234号交点までは旧国道なのです。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より。
写真A・1970年5月16日撮影。掘り込み前の道道苫小牧港線。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。解像度 400dpi の写真をトリミングし、66.7%に縮小。元画像の縮尺は2万分1。
国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より。
写真B・1975年9月28日撮影。掘り込みが進み、かつての道道は分断された。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。解像度 400dpi の写真をトリミングし、28.6%に縮小。元画像の縮尺は8千分1。

関連する告示(道道苫小牧港線)

1971年2月13日北海道告示第329号(道路の区域の変更)
区間変更前後の別敷地の幅員延長備考
苫小牧市字勇払145番の5地先から
苫小牧市字勇払152番の43地先まで
前122.00m から 26.00m まで2,891.00m
苫小牧市字勇払145番の5地先から
苫小牧市字勇払149番の22地先まで
後113.50m から 48.00m まで3,520.71m
苫小牧市字勇払149番の22地先から
苫小牧市字沼の端133番地先まで
後214.02m から 27.27m まで1,767.75m
苫小牧市字沼の端133番地先から
苫小牧市字勇払152番の43地先まで
後310.00m から 50.00m まで2,976.54m道道上厚真苫小牧線重用区間
告示注
  • ルートを切り替えた告示です。
  • 後1は図1▲のC-D間を通る臨港道路中央南ふ頭幹線、後2はD地点と上厚真苫小牧線を結ぶ市道沼ノ端勇払線、後3はE地点まで。
  • 当時の上厚真苫小牧線は現在とルートが異なり、一部旧道です。
  • 表の体裁は告示の原文と異なり、区域の新旧が逆です。
1971年2月13日北海道告示第330号(道路の供用の開始)
区間供用開始の期日
苫小牧市字勇払149番の22地先から
苫小牧市字沼の端133番地先まで
昭和46年2月13日
1971年2月23日北海道告示第404号(道路の供用の開始)
区間供用開始の期日
苫小牧市字勇払145番の5地先から
苫小牧市字勇払149番の22地先まで
昭和46年2月23日
告示注
  • 前者はD地点から上厚真苫小牧線交点まで。市道時代の供用開始の告示漏れとみられます。
  • 後者は臨港道路中央南ふ頭幹線で、告示以前に供用を開始していたと考えられます。
2万5千分の1地形図「勇払」(昭和46年修正測量)、等倍。
図4。臨港道路中央南ふ頭幹線が描かれている。1970年代初め。2万5千分の1地形図「勇払」(1971年修正測量)、ほぼ等倍。

消えた専用道・7年の使命

写真2。専用道が分岐していた跨線橋。
写真2。跨線橋を下った国道交点が、道道苫小牧港線の終点だった。昭和40年代には、地平へのアプローチ途中から左へ分岐し、国道をオーバーパスする専用道路が存在した。跨線橋は2004年度に4車線化されている。2009年11月8日撮影。撮影地 苫小牧市柳町1丁目
写真3。専用道と国道が立体交差していた付近。
写真3。一般国道36号の札幌方向を望む。左手建造物のやや東方で、専用道路と立体交差していた。その痕跡は完全に失せ、原野だった土地に商業施設が建ち並ぶ。2009年11月8日撮影。撮影地 苫小牧市柳町1丁目

図2▲を見ると、一般国道36号と立体交差する道路が描かれています。現在は跡形もありません。いったい何のために建設され、消えたのでしょうか。結論を先に書くと、土砂運搬に使われたのです。

苫小牧港の掘り込みで掘削された土砂は、一部が近海に捨てられたほか、明野地区の湿原埋め立てに利用されました。工業団地の造成が主目的で、埋め立てた土砂の量は300万立方メートルに達したといいます。あけぼの町・新開町・柳町・明野新町・新明町・美園町・泉町の全部または一部が対象区域にあたり、高校野球やスケートで有名な駒大苫小牧高校も含まれます。国鉄の操車場(現・JR貨物苫小牧駅)造成にも活用されました。

1960年から始まった掘削土砂の運搬は、一般国道36号を経由して行われていました。しかし交通密度は年々増大し、一日のべ 2,000 ~ 3,000台(1台につき20~30往復)のダンプカーが往来する国道は危険が高く、騒音や路面損傷の問題が顕在化します。

そこで運搬専用の道路が建設されます。掘削現場と苫小牧港線を結ぶ道路と、同線の港跨線橋を過ぎてから分岐する延長 580m の道路です。平面交差による混雑を緩和するため、図1▲のB地点から約 350m 西方に国道を越える全長16mの跨道橋が設けられました。跨道橋は1966年4月に着工、同年7月末に完成し、8月から使用されたようです。

専用道路は、使命を終えた1973年5月から廃道工事に入りました。道路としての用地契約が切れたことと、苫小牧港の掘り込みが残りわずかになったことが理由です。跨道橋は、1,950万円を投じて同年8月までに取り壊されました。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より。
写真C・1970年5月16日撮影。跨線橋の途中から分岐する跨道橋。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。解像度 400dpi の写真をトリミング・角度を補正し、50%に縮小。元画像の縮尺は2万分1。
国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より。
写真D・1981年10月27日撮影。専用道路の痕跡は、わずかに留める程度になっている。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。解像度 400dpi の写真をトリミングし、50%に縮小。元画像の縮尺は2万分1。

苫小牧港(西港)の建設

第二次大戦まで

天然の良港である室蘭に対し、苫小牧の海岸は遠浅の砂地で、港に適しませんでした。大正期には石炭や木材の積出港を苫小牧に建設する構想が出されますが、いずれも具体化まで至りませんでした。

1938年、苫小牧に工業港を建設する計画が表面化します。総事業費3,000万円の掘り込み式で平面図も作成され、1942年には現地調査も実施されました。石狩と苫小牧を運河で結ぶ、後の千歳川放水路にも通じる構想も検討され、1940年度から1942年度にかけて測量調査が行われています。いずれも、戦争の激化で計画は中止されました。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より。
写真E・1947年10月17日撮影。港が建設されるまで、一帯は原野であった。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。解像度 400dpi の写真をトリミングし、50%に縮小。元画像の縮尺は3万1千分1。

戦後~開港まで

1949年4月15日、苫小牧港は調査指定港湾に指定されます。1951年度の予算折衝で事業費が認められ、1951年8月26日に起工式が挙行されました。

だが、工事は遅々として進みません。

起工式の時点で港湾の規模が決まっておらず、水路策定に時間を要し、最終的な計画案がまとまったのは1957年10月でした。この間の予算も2億6,800万円余りしかつかず、工事も防波堤の整備が主です。実現を危ぶむ声も、少なからずありました。

建設時の諸問題を解決する調査が、並行して実施されます。特に砂の堆積を避けるため、1950年から1962年にかけて漂砂調査が行われました。

工事が本格化するのは、「特定港湾施設工事特別会計(注1▼)」に編入された1959年以降です。市有地や農地、戦後に東京から入った開拓地を買収するとともに、掘り込みに使用する浚渫(しゅんせつ)船が1960年6月下旬より作業を開始します。1961年度以降は10億円超の予算が配分され、工事は加速しました。1963年2月に、商港区の石炭埠頭(現在の入船埠頭)が完成します。

1963年4月1日に重要港湾の指定を受け、初めて貨物船が入港したのは同年4月25日です。

フェリーターミナルが東埠頭(図1▲のG地点)に設けられたのは1972年で、最初のフェリーが入港したのは同年4月29日です。ターミナルは暫定でした。航路の増加に対応する新ターミナルが、現在地の工業港区に新設されます。ターミナルビルと同時に、1975年4月1日より使用を開始しました。

水路の掘込は、1976年度まで継続されました。1981年5月26日より、特定重要港湾に指定されています。

注1
国の一般会計予算とは別に編成される「特別会計」の一つ。
関連する法律は次の通り。
  1. 特別会計に関する法律(2007年3月31日法律第23号)
  2. 特定港湾施設整備特別措置法(1959年3月30日法律第67号)
  3. 北海道開発のためにする港湾工事に関する法律(1951年3月31日法律第73号)
2の第4条、3の第2条・第3条により、国と港湾管理者の費用負担の割合が定められている。
名称は1961年より「港湾整備特別会計」へ、2008年4月より「社会資本整備事業特別会計(港湾勘定)」へ変更された。
国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より。
写真F・1966年9月2日撮影。開港から日が浅い頃の苫小牧港。さらに東へと掘り進んでいった。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。解像度 400dpi の写真をトリミングし、25%に縮小。元画像の縮尺は2万分1。
国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より。
写真G・1975年9月28日撮影。新旧フェリーターミナル。旧フェリーターミナルの建物は、公共東1号上屋に建て替えられ現存しない。国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。解像度 400dpi の写真をトリミングし、25%に縮小。元画像の縮尺は8千分1。
本稿の記述は、工業港としての歴史過程を断片的にご紹介したものです。
詳細は『苫小牧港史』他の文献をご参照ください。苫小牧港(西港)は、漁港でもあります。こちらの歴史は省略しました。
参考文献
  • 『苫小牧港史』(苫小牧港管理組合。1982年3月31日発行)
  • 『苫小牧市史(追補編)』(2001年3月25日発行)
  • 『日本経済新聞』(1969年9月10日付)
  • 『北海道新聞』(1965年12月1日付・1970年2月3日付・1978年5月13日付)
  • 『北海タイムス』(1966年4月24日付)
  • 『苫小牧民報』(1968年8月28日付・1971年2月28日付・1973年5月30日付)

別表・苫小牧港線のデータ

別表共通事項
  • 各数値は、北海道建設部建設政策局維持管理防災課監修の『道路現況調書』によります。西暦年の3月31日または4月1日現在です。1972年は廃止時の数字です。
  • 特記してある場合を除き、数字はそのまま掲載しました。1971年・1972年の数値は、上厚真苫小牧線の重複区間を実延長に算入しています。
別表1について
  • 延長の単位はメートル、割合の単位はパーセントです。
  • 改良率・舗装率は、当時の調書に掲載されていません。筆者が算出しました。
  • 『道路現況調書』による舗装の延長は、セメント系とアスファルト系(高級と簡易)の別掲があります。本表では省略しました。
  • 1965年と1966年の重用延長は、一般国道235号が海岸線を経由していたことによります。1964年にも存在するはずの延長は空欄なので、そのままとしました。
  • 1970年まで、総延長が増減した経緯は不明です。この間、大幅なルート変更があったとは考えにくい。
別表1 総延長・実延長と改良率・舗装率
西暦総延長重用延長未供用延長実延長改良済延長未改良延長砂利道舗装改良の割合舗装の割合
19649,4009,4001,0808,3209,40011.50.0
19658,4001,6006,8003,6553,1456,80053.80.0
19668,4001,6006,8004,0002,8006,7524858.80.7
19678,2638,2634,0004,2638,2154848.40.6
19688,2638,2634,0004,2637,55570848.48.6
19698,304428,2624,0124,2506,8261,43648.617.4
197010,5034210,4616,2114,2506,8263,63565.334.7
197114,5814814,5325,7588,7749,0245,50839.637.9
197214,5814814,5325,7588,7749,0245,50839.637.9
別表2~別表4について
  • 延長の単位はメートル、ほかは箇所数です。
  • 車道幅員別の内訳のうち、自動車交通が不能な延長はカッコ書きで示しました。
  • 鉄道交差は旧国鉄のみです。私鉄や専用線は含まれておりません。
別表2 橋梁・トンネルと鉄道交差
西暦橋梁トンネル鉄道交差
個数延長個数延長立体平面
1964
1965
19661482
1967248
19682481
19691
1970
197123012
197223012
別表3 幅員別の内訳・改良済延長
西暦13.0m 以上9.5m 以上7.5m 以上5.5m 以上4.5m 以上4.5m 未満
19641,080
19653,655
19664,000
19674,000
19684,000
19694,012
19702,8533,358
19711,2612,111132,35915
19721,2612,111132,35915
別表4 幅員別の内訳・未改良延長
西暦5.5m 以上3.5m 以上2.5m 以上2.5m 未満
19644,400(3,920)
19652,800(345)
19662,800
19674,263
19684,263
19694,250
19704,250
19718,168606
19728,168606
苫小牧シリーズ
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